ハーネマン以後のホメオパス

1855年より前には、ドイツにはホメオパシーを採用している専門家はほとんどいませんでした。
1855年、アーサー・ルッツの著作にダブルレメディを用いたプラクティスが記載され、このことが家庭用薬としての『特定の薬』を用いるプラクティスをもたらしました。

『単一のレメディを、1回の投与で、プルービングの症状との類似性によって選ぶ』ということは、1946年にジョスト・キュンツリがケントのレパートリーをドイツ語に翻訳するまで、実質的には長いあいだ知られていませんでした。
予防接種は、1797年にジェンナーによって発表されました。ハーネマンには受け入れられましたが、後にヘリング、クローズ、その他の人々から非難されました。
多くは、天然痘にヴァリオリナム(天然痘のノゾ)を投与するという「内服するワクチン接種」を好みました。

ヨハン・スタフ

ヨハン・スタフ

ハーネマンの原則を最初に受け容れたのは、ヨハン・スタフです。
スタフはハーネマンの最も古い弟子で誰よりも高名でした。彼は1811年にホメオパシーの勉強を始め、1812年にはマテリア・メディカ・プラの第一巻にあるレメディだけでプラクティスを始めました。

ドイツでは、1832年にホメオパシー専門の病院を開始する取組みがありましたが、ハーネマンは経営陣や『半ホメオパス』と呼ばれる人々から支持されませんでした。
1834年までにはその活動は真っ二つに別れ、1837年までにはハーネマンの著書を『もはや今日のホメオパシーの観点を表現するものではない』と信じる人々まで出てきました。

クレメンズ・フォン・ベニングハウゼン

クレメンズ・フォン・ベニングハウゼン

1832年にクレメンズ・フォン・ベニングハウゼンは『抗プソラ薬のレパートリー』を、そして1846年には『治療法ポケットブック』を出版しました。

ハンス・バーク・グラム

ハンス・バーク・グラム

1820年代にハンス・バーク・グラムは米国に旅行し、1825年に開業しました。
アメリカン・スピリットが新しいシステムの教義を受け入れるであろうと信じ、1825年にハーネマンのSpirit of the Homeopathic Doctrineの翻訳本を出版しました。

コンスタンチン・ヘリング

コンスタンチン・ヘリング

ヘリングはアメリカでは『ホメオパシーの父』と呼ばれています。彼のホメオパシーへの転換には興味深いストーリーがあります。
17歳の時、ヘリング医師は医学に興味を持つようになり、ライプチヒ大学へ入学し、著名な外科医であったヘンリッヒ・ロッビ医師の愛弟子となりました。このときハーネマンは正統派医学の支持者からは目障りな存在とされていました。
というのも、『オルガノン』は正統派医学の体系に異議を唱えるものであったからです。
ロッビ医師はハーネマンを批判し、他の医師同様、ホメオパシーやハーネマンを愚弄していました。

ハーネマンに対する反対運動が最悪となった1821年に、ライプチヒにある出版社の創設者であるC.バウムガルトナーは、ホメオパシーの体系にとどめを刺せるような、反ホメオパシーについて書かれた書物を手に入れたがっていました。

ロッビはそれについて書くように依頼されましたが、時間がないことを理由に辞退し、彼のアシスタントであるヘリングを推薦しました。
ヘリングは執筆に取り掛かり、1822年の冬にはほぼ書き終えました。

しかし引用のためにハーネマンの書物を読んでいるときに、へリングはマテリアメディカ・ピュラ第3巻の序文にある有名な『論評家へ、注意せよ』に出くわしたのです。

『教義は経験に対する判断に対して、概ねというだけでなく唯一、次のように求める-「実験を繰り返せ」、それは大声で叫んでいる。注意深く、そして正確に繰り返すことで、あらゆる段階において教義が裏づけられるのがわかるだろう。』

ヘリングはこの挑戦を受けることにしました。最初に彼がしたことは、キナの実験でした。結果はハーネマンの予言通り。ヘリングはホメオパシーの真理が分かり始めました。
ホメオパシーのマテリアメディカの勉強を深めることで、彼はハーネマンの結論について確信しました。従って、反ホメオパシーについての書籍は、日の目を見ることはなかったのです。

1824年の冬に、ヘリングは遺体の解剖中に右手の人差し指を切ってしまい、傷はすぐに壊疽になり始めました。
クマーというハーネマンの門弟はヘリングにホメオパシーの治療を受けるよう説得し、アーセニカムを与えました。
レメディを何度か投与された後、気分は良くなり、壊疽は完全に治癒しました。ヘリングは驚いて、彼のホメオパシーに対する興味は際限ないものとなりました。彼はさらなる教えを求め、ハーネマンに連絡をとりました。

コンスタンチン・ヘリング

1833年1月、ヘリングはアメリカのフィラデルフィアに到着しました。
彼はペンシルベニア州のアレンタウンにホメオパシーの学校を設立しました(アレンタウン・アカデミー)。彼はアカデミー・オブ・ナチュラル・サイエンスのメンバーとなり、膨大で価値のある動物に関する収集品を寄贈しましたが、それには南アメリカ産Lachesis mutus(ブッシュマスター)の現物も含まれており、このヘビの毒からLachesisの最初のプルービングを行いました。

ヘリングの力が非常に秀でていたのは、レメディのプルービングの領域です。
ナッシュや他のホメオパスは、もしヘリングがたった一つの薬Lachesisのプルービング以外、何も医学のためにしなかったとしても、世界は彼に永遠に続く感謝の借りを負うことになっていただろうと発言しています。つまり単にそれだけで、へリングには不朽の名声が与えられたのです。

アドルフ・リッペ

アドルフ・リッペは1812年5月11日にプロシアのゲルリッツ近郊で生まれ、1888年1月23日にアメリカのペンシルベニアで他界しました。
リッペ医師はベルリンで教育を受け、1838年にアメリカへ渡って来ました。
彼は最初にペンシルベニア州のリーディング(バークス郡)に居住し、開業しました。

知識を深めるために、1838年の秋、リッペは世界で最初の唯一のホメオパシー医科大学である、ペンシルベニア州アレンタウンにあるThe North American Academy of the Homeopathic Healing Artに入学しました。ここはアレンタウン・アカデミーとしても知られています。

1840年代を通して、リッペ医師はカンバーランド・バレーでよく起こる様々な伝染病の治療で有名になりました。
そして1850年、リッペはフィラデルフィアへと永住し、カーライルからの2人の紳士を同伴して、ホメオパシーの勉強を続けました。

リッペ医師は、1864年から1869年までペンシルベニア・ホメオパシー・医科大学でマテリアメディカの講義を担当していました。オルガノンやハーネマニアン・マンスリー、ホメオパシック・フィジシャンを含む最高のホメオパシー専門誌の立ち上げも支援しました。

キャロル・ダナム

ダナム

ダナム医師は1847年にコロンビア大学を優等で卒業しました。1850年にCollege of Physicians and Surgeons of New York(ニューヨーク内科外科大学)で医師の学位を得ました。
 

ダブリン滞在中、ダナムは解剖中に死にそうなほどの外傷を負いましたが、ホメオパシーの助けを借り、自分でLachesisを使って治癒に至りました。
彼はヨーロッパの様々なホメオパシー病院を訪ね、マンスターへ行き、そこでベニングハウゼン医師と共に滞在し、素晴らしい師の手法を勉強しました。

彼は診療や著書において、ハーネマンの教義の保守的な信奉者として広く知られています。
そうでありながら、彼はホメオパシーを持続できる医療制度として、その改善や保護の取り組みに関しては寛大でした。
「私は自由を嘆願する」と、ダナムは1870年のAmerican Institute of Homeopathy (AIH)年次大会のスピーチで公言しました。
「なぜなら、完全な自由によって真実の知識と、私たち全てが望む診療の純粋さがより早くもたらされるであろうということを確信しているからである。」

スピーチはハーネマニアンによって暗黒と不吉な前兆だとされましたが、『学校の折衷主義派』からは情熱をもって受け止められました。
ダナムは1874年、AIHが『ホメオパシー』という言葉を全ての会員資格の必要条件から落とすことを投票で決定すれば、そのことがホメオパシーの破壊を早めると断言しました。
この変更によって、ホメオパシーのトレーニングの有無に関わらず、誰もがAIHに加入することができるようになりました。最終的にダナムは自らの過ちに気が付きました。

インターナショナル・ハーネマニアン・アソシエイション(IHA)

1880年台初め、多くの保守的なホメオパスは多数のリベラル派により設定された明らかな破壊方針に対抗するため統一戦線を結成しました。
1881年に、AIHのいい加減なやり方に対抗するために、インターナショナル・ハーネマニアン・アソシエイション(IHA)が設置されました。

ハーネマンのオルガノンに記述されている解答こそが治療法に対する唯一真のガイドでした。
彼らはハーネマンの同種の法則、1種類のレメディ、活性化した薬の最低量投与の正当性を再確認しました。
IHAは「…2種類以上の薬物を混ぜたり交互に使ったりすることは処方者の能力の欠如を示し、
それは許せないものであり、ホメオパシーではない」と決定しました。

会員数は1930年の215名を越えることはありませんでしたが、IHAは正真正銘のホメオパシーを20世紀に向けて生き延びさせることを促進しました。
当時AIHに所属していた会員全員が、IHAと合併することを投票で決定し、1959年には運営を停止しました。

1885年にAIHは最初の薬剤のマスキングとプラシーボの記録を実施します。
19世紀後半の原著には、ホメオパシーのプルービングはmasked studiesを盛り込み、プラシーボの使用は正統派医学が使用したときより40年以上前から行われていたことが示されています。

ヘンリー・C・アレン

ヘンリー・C・アレン

ヘンリー・C・アレンは1836年10月2日にカナダのロンドン・オンタリオ近郊のニールズタウンで生まれました。彼は独立戦争のヒーローである、イーサン・アレンの子孫です。

1892年にアレンはヘリング・メディカル・カレッジの創設を支援し、生涯、マテリアメディカの学部長と教授でした。在職中、人が一生涯かかっても受けることがないほどの尊敬と愛情を受けました。

1890年代は多くのホメオパシー大学が検査室手法や外科手術、一時的治療法や病理学ブームを強調した現代的で科学的なホメオパシーへと染まっていきました。
ハーネマンの教えはしばしば独断的で時代遅れで、非現実的だと見なされていました。
ほとんどの卒業生は一時的治療法や病理学ブームについてはよく知っていましたが、ホメオパシーについてはほとんど知識を持っていませんでした。

アレン医師は大学のカリキュラムでのオルガノンの復活を積極的に働きかけ、世紀の変わり目の間に広く使われることに大いに関与しました。
彼以前のハーネマンやヘリングのように、アレンはオルガノンに記述されている科学的方法を熱心に擁護しました。

ケントがデンバー・クリティークにプルービングされていないレメディを発表することに彼が反対したことは、
ハーネマンの原理に対して揺ぎない信頼があることを明らかにしています。
ケントは1ヶ月に1つのレメディを発表すると約束していたのですが、これは不可能であると分かったため、プルービングされていないものや、臨床経験のないレメディを記述したのです。

1908年6月に行われたホメオパシー総会で、信頼できないマテリアメディカを発表したことについて、アレンはケントを非難しました。
ケントは自分の姿勢を撤回し、その後二度と“作りものの”レメディについて発表することはありませんでした。
そして実際にそれらを彼の著書であるLectures on Homeopathic Materia Medicaの第2版より削除しました。

アレンは、AIHやIHA、そしてイギリスとインドの団体を含む複数のホメオパシーの団体に所属していました。
実は、アレンはAIHに最後まで残りました。彼はAIHにおいて、ハーネマンの原理を、特にマテリアメディカにおいて、会議や議論で守り続けたのです。
彼は長年、『メディカル・アドバンス』のオーナーであり編集者でした。

ジェームズ・タイラー・ケント

ジェームズ・タイラー・ケント

ケント医師はニューヨークのウッドハルで生まれました。
彼はシンシナティのEclectic Medical Instituteを卒業し、折衷主義者としてセントルイスで開業しました。1878年、妻が病になり、折衷的な方法でもアロパシーでも治療が功を奏さなかったことから、ホメオパシーに関心を持つようになりました。

彼は高いポーテンシーのレメディを使うホメオパスとして有名になりました。
というのも、彼以前のほとんどのホメオパスは低いポーテンシーのレメディを使っていたからです。
彼は100倍希釈の基準で作られた、30、200、1M、50M、CM、DMそしてMMポーテンシーを使うことを推奨しました。
ケント医師は慢性病の治療法において、Series in Degreesという教義を紹介しました。

ケント医師は患者の意思や理解、そして思い出を最も重視しました。
それらは人間の最も深い部分で形成され、そして全体的で身体的な有機体を通して外側へと広がります。
治癒は中心から外側に向かって起こりますが、症状が表面から中心へと後退している場合には、その処方は不適切であり、解毒しなくてはなりません。
従って治療を成功させるためには、ホメオパスは器官の調和と治癒の方向性を知っていなければならないのです。

エマニュエル・スウェーデンボルグ

エマニュエル・スウェーデンボルグは他の多くのアメリカのホメオパス同様、ケントに影響を与えたスウェーデン人の科学者であり、哲学者であり、キリスト教神秘主義者で神学者でした。

ジェームズ・タイラー・ケントは1897年に彼のレパートリーの第1版を彼の妻と共に夜遅くまで蝋燭の火を灯しながら完成させました。
彼の妻はその負担から片方の目の視力を失い、それによってケントも危うく死ぬところでした。
彼は第3版を仕上げる前の1916年6月に他界しました。
最近多くの版が当代のホメオパスであるアーメッド・カリムの調査に基づき加えられています。

1900年頃のアメリカでのホメオパシー

1900年までには22のホメオパシー医学校、100以上のホメオパシー専門病院、60以上の孤児保護施設と老人ホームがあり、1000以上のホメオパシー薬局がアメリカにありました。
しかしながら、これらの数字はホメオパシーがアメリカ人の生活に影響を与えたというには正確な報告ではないかもしれません。

1902年、American Medical Association(AMA)は自らを善人に見せようと、ホメオパシー医学校の卒業生がAMAに加入することを許可することにしました。
ただし、彼らがホメオパシーを糾弾するか、少なくともホメオパシーの治療を行わないならば、という条件つきでです。
AMAは単にホメオパシーを攻撃するのではなく、より効果的にホメオパシーを打ち倒す方法を発見したのです。

1909年、カーネギー財団はフレクスナー・リポートを発表しました。
フレクスナー・リポートとはエイブラハム・フレクスナーが議長を務めてAMAの幹部と協力し、アメリカの医学校の評価をするものです。
客観的であることを装ってはいましたが、実際には、リポートは正統派医学校を支持しホメオパシー医学校を非難するという指針を確立していました。

ジョージ・ヴィソルカス

ジョージ・ヴィソルカスは、MIHであり、”The Science of Homeopathy”の著者であり、ヴィソルカス・エキスパート・システムの創設者です。
彼はクラシカルホメオパシーにおける偉業を讃えられ、1996年にオルタナティブ・ノーベル賞を受賞しました。
ヴィソルカスは、1970年代のアメリカおよびヨーロッパのホメオパシー復活に多いに力を尽くしました。

(※当内容はハーネマンアカデミー主任講師キム・エリア先生の講義資料を抜粋・編集したものです)