ホメオパシートピックス

スイスでは、公式にクラシカルホメオパシーが評価されました。

昨秋、スイスで「保健分野におけるホメオパシーに関する公式報告書」が英文にて発表されました。
このスイスの公式報告は以下の書籍の内容です。

Homeopathy in Healthcare: Effectiveness, Appropriateness, Safety, Costs: An HTA Report on Heomeopathy as Part of the Swiss Complementary Medicine Evluation Programme

その内容については、当初ドイツ語での発表しかなく(2006年)、あまり知られていませんでしたが、今回、日本クラシカルホメオパシー協会員のMyriam Mueller氏から、日本語訳を送って頂きましたので、ご紹介させて頂きます。 日本語訳の全文及び英語での原文も合わせてご覧下さい。

pdf_icoスイスの保健分野におけるホメオパシーに関する公式報告書(PDF)

※当記事は上記書籍Homeopathy in Healthcareの抜粋とその日本語訳です。
(文の抜粋、日本語訳:Myriam Mueller氏)

その要点をまとめると・・・以下6点に要約されます。

  1. スイスでのホメオパシーの専門家は、医師資格のあるホメオパスと医師資格のないホメオパスの両方が存在している。
  2. 国民のホメオパシーへの需要は旺盛なため供給を上回ることがあり順番待ちになっている。
  3. スイスでは、クラシカルアプローチ(一度の単一のレメディを使うもの)が主流であり、複合レメディーを用いるホメオパシー・アイソパシー・臓器レメディーを用いるホメオパシーはほとんど見られない。
  4. 複合レメディが使われた場合には、様々な問題が起きる懸念がある。コンビネーション・レメディー(コンプレックス・ホメオパシー)や同時処方(プラクティカル・ホメオパシー)で服用された場合、どのレメディーが悪化を引き起こしたのか判断ができない。このような組み合わせは、避けるべきである。
  5. ホメオパシーにおいては、クライアントの個別の症状の全体像に基づいて、レメディーが正確に選択された時にのみ有効となる。
  6. 代替療法の中でもホメオパシーの有効性は明確であり、コスト面でも安全面でもホメオパシーにおいては殊に有効であることが確認された。

「レメディは、決して一度にニ種類以上使用してはならない」ハーネマン

私たちは今の日本のホメオパシーの状況を残念に思い、
2007年秋にクラシカルホメオパシー京都を立ち上げました。
しかし依然としてホメオパシーは充分に理解されていません。

主著オルガノンにおいて、創始者ハーネマンが特に強調したのは、
「一度に一種類のレメディを最小限度で」ということです。
(オルガノン273~274段落)

この原則は、今も世界中のホメオパシー実践者にとっての基本中の基本になっています。ハーネマンが身を持って実験した「プルービング」や、それを土台にして彼が唱えた「症状の全体像」に「最類似のレメディを使用する」ことが理解できれば、なぜ「一度に一種類のレメディ」しかありえないのかは、自明のことです。

クラシカルホメオパシー京都では、この「一度に一種類のレメディを最小限度で」の原則を大切にした人材育成を目指しています。

実際にハーネマンがどう述べているのかについて、彼の主著「オルガノン」から該当箇所を以下に抜粋しました。
日本語の翻訳と英文をご紹介しますので、ぜひご一読ください。

§273
手当ての際、一度に二つ以上の、ニ種類以上のレメディをクライアントに使用することは決して必要のないことであり、それゆえそうするだけでもすでに許しがたいことである。
十分に知られたレメディを一度に単一のレメディだけ処方することが、それより多く処方することよりも自然にも道理にも適っているだろうか、という疑問をさしはさむ余地すら少しもありえない。
唯一真なる単純な回復術でもあり、唯一自然に適った療法でもあるホメオパシーでは、二つの異なったレメディを一度に服用させることは、決して許してはならないことなのである。

In no case under treatment is it necessary and therefore not permissible to administer to a patient more than one single, simple medicinal substance at one time. It is inconceivable how the slightest doubt could exist as to whether it was more consistent with nature and more rational to prescribe a single, simple1 medicine at one time in a disease or a mixture of several differently acting drugs. It is absolutely not allowed in homoeopathy, the one true, simple and natural art of healing, to give the patient at one time two different medicinal substance.

§274
真の療法家は、何も混ぜない単一のレメディを投与することだけが唯一望めることであるとわかっている。
この、人為的な乱れを生み出すレメディは、ホメオパシーの力によって完全に自然の乱れを消し去り、根源的生命力の感覚からその乱れを取り去り、持続的に回復させることできるものである。
「一つのものだけでできるのに、多くのものを使って行いたいと思うのは間違っている」と賢明にも言われているように、一回に単一よりも多くのレメディを与えることは、真の療法家にはけっして思いつかないであろう。
なぜなら、人間の健康の隅々にまで働きかける純粋で特有な作用について単一のレメディがくまなく吟味されるのだとしたら、二つ以上のレメディを一緒に用いたとき人体の作用に関してどのようにお互い邪魔し変化させる可能性があるのか、あらかじめ予想することができないから。
それに対してさらに理由を言えば、単一のレメディは、ケースの総体が正確にわかっている病気に使用するとき、ホメオパシー的に選ばれていればそれ一つだけで完全に役立ち、しかも、症状の類似性の点で完全に一致して選ぶことができなかったために役立たないような最悪の場合でさえ、レメディの知識を増強させる点で有益だからである。こういう場合に自分で生み出した新しい症状によって確認されるものは、すでに以前このレメディが健康な人体にプルービングされた際に示された症状なのである。こうした有益な点は、合成された薬のどれを使用する場合でも見られない。

(注)十分に考察されたケースに対して適切にホメオパシー的にレメディを選んだとしても、その上さらに、別の薬剤をもとにつくったお茶を飲ませるとか、他のいろんな薬草による薬草袋や湿布剤を貼るとか、あるいは、浣腸剤を挿入したり、あれやこれやの軟膏を擦り込んだりするのであれば、合理的な療法家は、それを、非合理的で惰性的なアロパシーの業務であるとみなすだろう。

As the true physician finds in simple medicines, administered singly and uncombined, all that he can possibly desire (artificial disease-force which are able by homoeopathic power completely to overpower, extinguish, and permanently cure natural diseases), he will, mindful of the wise maxim that it is wrong to attempt to employ complex means when simple means suffice, never think of giving as a remedy any but a single, simple medicinal substance; for these reasons also, because even though the simple medicines were thoroughly proved with respect to their pure peculiar effects on the unimpaired healthy state of man, it is yet impossible to foresee how two and more medicinal substances might, when compounded, hinder and alter each other’s actions on the human body; and because, on the other hand, a simple medicinal substance when used in diseases, the totality of whose symptoms is accurately known, renders efficient aid by itself alone, if it be homoeopathically selected; and supposing the worst case to happen, that it was not chosen in strict conformity to similarity of symptoms, and therefore does no good, it is yet so far useful that it promoted our knowledge of therapeutic agents, because, by the new symptoms excited by it in such a case, those symptoms which this medicinal substance had already shown in experiments on the healthy human body are confirmed, an advantage that is lost by the employment of all compound remedies.1

1 When the rational physician has chosen the perfectly homoeopathic medicine for the well-considered case of disease and administered it internally, he will leave to irrational allopathic routine the practice of giving drinks or fomentations of different plants, of injecting medicated glysters and of rubbing in this or the other ointment.